プロ野球からアマチュア野球まで、野球を縦横無尽に語ろう

野球歴史散歩

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  • »沖縄の歴史
    •  沖縄に野球が伝わったのは今から119年前の1894(明治27)年と言われている。この年、首里高校の前身、沖縄尋常中学(のちの沖縄第一中学)の生徒が京阪地方への修学旅行に出かけた折、第三高校(旧制三高、現在の京都大学)へ立寄り大歓迎を受けた。当時の沖縄は琉球王府時代に北京の国立大学へも合格者を出す最高学問所である「国学」から「沖縄(首里)中学」に変遷して10年ほどしか経ってない。初めて沖縄県になって唯一の高等教育機関が首里中学なのである。三高からもらった野球用具一式を持ち帰ったことにより野球は沖縄に定着し、1916(大正5)年には第1回沖縄選手権大会が開催され、沖縄一中が優勝を果たしている。

       沖縄・首里高校の中庭にある「友愛の碑」は首里高校が1958(昭和33)年に沖縄勢として初の甲子園出場を果たした記念に建てられたもので、台座の「友愛」の文字が刻まれた部分には石を埋め込んだ野球場(ダイヤモンド)の形がきれいに再現されている。58年当時、沖縄は敗戦(昭和20年)以降、依然としてアメリカの統治下に置かれていた。首里高ナインが記念に持ち帰ろうとした甲子園の砂は植物防疫法に抵触するということで、無残にも那覇港の海に捨てられてしまったのだ。これを新聞で知った日本航空のキャビンアテンダント・近藤充子さんは砂でなければならいいのだろうと、甲子園の海岸の石を拾い集めて首里高校に寄贈した。台座の石はそのときのものである。

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  • »甲子園の歴史
    •  武庫川の支流である枝川と、そのまた支流にあたる申川(さるかわ)の河川敷が阪神電鉄に一括して払い下げられたのは大正11(1922)年11月のこと。当時、この三角地帯には雑木が生い繁り、狸や狐が巣を作っていたという。ここに総収容人員8万人(観客席5万人分)を誇る球場が作られたのは、それから2年後の大正13年である。

       この年は暦の干支(えと)を構成する「十干(じっかん)」と「十二支」のそれぞれ最初に当る甲(きのえ)と子(ね)が60年ぶりに出会う縁起のいい年であったことから、「甲子園」と名づけられた。現在は全国的な知名度を得ている甲子園球場だが、当時ここは知る人の少ない人里離れた村で、球場ができる前の「大正12年測図」の地図には「中津」とだけ地名がある。ここに、球場ができる遥か以前からあったのが素盞鳴神社である。

       創建は不詳だが、元禄元年や天保年間に再建された記録があるので、三百数十年以前の創建と推定される。資料には「三角州の要の地の大樹に囲まれた荘厳な神域」と紹介されている。現在とは様子がだいぶ異っていることがわかる。

      「三角州の要の地の大樹に囲まれた荘厳な神域」を納得させる写真が素盞鳴神社にある。当神社の南側にある小さな鳥居を正面から写した写真で、境内を覆う鬱蒼とした森が甲子園球場完成以前のこの辺りのありさまを彷彿とさせる。

       この写真が貴重なのは、旧枝川・申川の土手に屹立する松林がかすかに写っているからである。この土手の松林、実は現在も同じ場所に根を張っている。阪神甲子園駅から球場をめざし、阪神高速を潜る直前、土産・飲食店が並ぶ辺りが旧申川の土手、その真正面にあるケンタッキーフライドチキンや白木屋などが軒を並べる辺りが旧枝川の土手で、その一帯が土盛りされて高台になっていることは歩いたことのある人にはわかるだろう。

       甲子園球場ができる以前、このあたりは砂洲だったため綿花、菜種、イチゴくらいしか農産物ができなかったと言われる。とくに有名だったのがイチゴ栽培。そのため、1929(昭和4)年に開設した甲子園南運動場を「スロベリースタジアム」と命名する話もあったらしい。遠い昔の逸話である。

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  • »慶應義塾大学・稲荷山グラウンド
    •  蜂須賀茂詔(もちあき)侯爵が三田綱町に所有する森林などを買い受け慶應義塾大学(以下慶大)の運動場としたのが明治36年。この三田綱町グラウンド(球場)の口あけとなった試合が慶大対早稲田大学(以下早大)戦、いわゆる早慶戦のはじまりである。

       慶大の野球部創設が明治25年だったのにくらべ、早大の部創設はそれより遅れること9年、明治34年とおそい。しかし、翌35年に戸塚球場(のちの安部球場)を完成させ、37年には学習院、一高、横浜外人、慶大、青山学院を連破。翌38年には他校にさきがけて、わが国初のアメリカ遠征を実現し、バント、運道具の改善、スコアブック記入法などを日本に取り入れた。そういう早大の長足の進歩にくらべ、慶大が早大とともに頂点に達するまでに要した時間は12年。この牛歩の歩みの原因となったのが練習グラウンドの不備である。

       三田キャンパスの正門(南門)に向かって左側の高台を稲荷山と言う。現在、ここには三田演説館が建っている。ここを背に前方(北側)を見ると右側に大学院校舎、左側に南館があるが、『慶應義塾便覧』中の実測図を見ると、そのあたり一帯が当時の運動場で、一般的には稲荷山グラウンドと言う。ここの評判がすこぶる悪い。

      「稲荷山の下が塾のグラウンドで、これが非常に細長い菱形の妙な地形で、はじめ此処でばかりやっていたからベースボールのグラウンドは、こういう菱形のものだと思いこんでいた。一塁から二塁二塁から三塁、その距離は正式だけれども、一塁と三塁の間が三分の二位しかない。従って、二塁と本塁の距離が一倍半位ある。それ故、二塁でアウトにするということはむつかしい。ほとんど不可能であった。三塁は割合にアウトしやすかったが、一間位後に塀があって、三塁が外すとこれに当って球がもどってしまうので、なかなかホームに入れなかったというおかしな形のグラウンドであった。外野も二塁をオーバーすると、センターが稲荷山の麓にあるのだから、大ていは山に入ってしまう。これを探すのが幼稚舎生の仕事であった。遊撃手も後に退る余地もないから、二塁と三塁の間で守備をやっていたものである」          (『慶應義塾野球部百年史・上巻』より)

       これは野球部OBにしてのちの横浜市長、平沼亮三が書いたもので、他にも昭和8~22年まで塾長を務めた小泉信三が同様のことを書いている。

       明治36年に三田綱町にグラウンドが創設されると、慶大野球部はめざましい進歩を遂げる。同年11月21日に行われた第1回目の早慶戦を11対9で勝利し、翌37年には早大に続いて長らく黄金時代にあった一高を11対10で破り、高らかに早慶時代の幕開けを告げるのである。

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  • »わが国初の本格的な野球チーム、新橋アスレチック倶楽部の本拠地
    •  1871(明治4)年、16歳でアメリカに旅立ち、7年後の78年に帰国した平岡熙(ひろし)がアメリカ留学時代に熱中した競技がベースボールである。帰国後、鉄道局三等技手として新橋工場に職を得た平岡は日曜ごとに工員を集めて新橋工場でベースボールの練習をし、これがわが国初の本格的な野球チーム、新橋アスレチック倶楽部へと発展していく。

      『慶応義塾野球部百年史・上巻』の「創生期時代」には「十五年鉄道局汽車課長となるに及んで、構内の芝浦寄りにアメリカをまねた美しく芝生を植えた本式のグラウンドを作り上げた。この頃こんな球場は日本に見ることができなかったのはもちろんである。ここが新橋クラブの本拠となった」とある。

       しかし、この記述には誤りがありそうだ。新橋駅構内の芝浦寄りにアメリカをまねた球場を作ったのは帰国早々の明治11、2年頃のことで、ここが手狭になったため品川八ツ山下の鉄道局敷地内に野球専用グラウンドを作ったのが明治15年のこと。この場所こそ、わが国初の本格的な野球グラウンド「保健場」である。

       さて、『慶応義塾野球部百年史』が書くところの「美しく芝生を植えた本式のグラウンド」が新橋にあったのか品川にあったのか、どの資料にもはっきり書き残されていない。

      『真説 日本野球史 明治篇』(ベースボール・マガジン社、大和球士著)には八ツ山下の記述がなく、「明治二十年、平岡が新橋鉄道局を退職すると同時に解散してしまい、保健場にも鉄道のレールが敷かれ、毎週一回、ローラーで手入れした芝生も跡形もなくなってしまった」とある。

      『ベースボールと陸蒸気』(小学館文庫、鈴木康允、酒井堅次著)には「『保健場』は新橋倶楽部の全員が勤労奉仕で作った。草を刈り、地ならしをし、白線を引いてグラウンドらしく整備した」とある。

       これらを読み合わせると芝生が敷きつめられたのは品川八ツ山下のようだが、『ベースボールと陸蒸気』には「このグラウンドは昭和初期まで『品川八ツ山下野球場』として使われていた」と書かれている。もし、全面天然芝の野球場が昭和初期、品川に存在していたらもっと広く知られているはずだが、私はそういうことを聞いたことがない。

       アメリカで見聞したベースボールの記憶が生々しい明治11、2年頃、狭い新橋駅構内に全面天然芝のグラウンドを作った、というのが常識的に考えていい結論だろう。ちなみに、旧新橋駅跡地には現在、鉄道歴史展示室が建っている。

       さて、品川八ツ山下にあった保健場だが、明治20年に測量された5000分の1の地図に、多分ここにあったのだろうという場所が記されている。八ツ山橋より海側に突き出た台形の場所である。

       この場所を『週刊ベースボール別冊秋季号 1950-2011 わが愛しのスワローズ 国鉄から始まった栄光の軌跡』中の記事、「日本初の野球チームは鉄道工場で結成された」は、次のように記している。

      「本格的な野球道具を手に入れた新橋アスレチック倶楽部は、新橋工場の空き地では手狭になってきたので、品川停車場のそばにある八ツ山下の広場に目をつけた。現在の品川区北品川1丁目、都営バスの車庫になっているあたりである」

       私もおおよそその辺りだと思うが、実際に地図と首っ引きで歩いてみると、微妙に品川駅に近い京王品川ビルのほうが近いのではないかと思う。また、5000分の1の地図に記された保健場のあった場所は40メートル×40メートルの狭い場所だったこともわかった。

       この保健場の近くにあったのが旧東海道の品川宿である。「昔は吉原を北国、品川を南国ととなえ、吉原へ千挺の駕が這入れば、品川へは五百挺の駕が這入ると云う程の繁昌を極めし東海随一の駅宿にて」と『東海道品川宿 思い出の記』にはある。この本には「貸座敷 土蔵相模屋」についても記述がある。ちなみに、土蔵相模屋とは落語「居残り佐平次」の舞台としても有名な遊郭のことである。

      「此の建物は仮宅にて明治六年の頃、池上在久賀原三木醤油製造業、俗に五万石氏へ譲り渡し同家は維新元勲いわゆる明治の大官連が日夜遊興に参られし名高き妓楼なり」

       明治六年の品川宿には維新の元勲も足繁く通う場所だったことがわかる。こういう場所の近くに平岡がベースボールの専用グラウンドを作ったのは、鉄道局の敷地が空いていたのと、品川宿が近くにあったからだろう。

      『ベースボールと陸蒸気』は平岡を「広範な趣味で一生を遊び尽くした道楽の天才だった!」と紹介している。そういう人間が「ただ敷地が空いてるから」という理由だけで、北品川に専用グラウンドを作ったとは思えない。練習を終えたアスレチック倶楽部の面々が平岡に連れられて貸座敷に入っていく姿を、私は北品川を歩きながら何度も思った。そういう平岡のほうが私には好ましい。

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  • »上田城址公園野球場
    •  映画『ラストゲーム 最後の早慶戦』のプロモーションで席が隣り合った仁村薫氏(早大→巨人→中日)に「映画の戸塚球場はどうでしたか」と聞くと、「(本物と)似ているのでびっくりしました」と答えが返ってきた。
      『ラストゲーム』中に出てくる早大・戸塚球場のモデルになったのは、だいぶCG加工されているが上田城址公園野球場である。

       私が初めてここを訪れたのは2010年6月6日。北信越大会が県営上田球場などで行われることもあり、上田城址公園のそばにあるホテルをとった。タイミングが合えばいつか来ようとずっと思っていたのだ。

       180以上の球場をめぐってきたが、これほど古色蒼然と美しい球場を見たのは初めてでちょっと感動した。公園事務所の方に聞くと、まだ軟式の試合で使われることがあるらしい。

       ネット裏後方の壁際には「児平末男先生像」があり、この人がどういう人かいまだにわからない。両翼92m、中堅116mの小さな球場で、三塁側照明灯の下にはスズメ蜂の巣があるとのこと。→上田城址公園ホームページ

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  • »鳴海球場跡
    • 「われわれが愛電と呼んでいた電車(今日の名鉄電車)で鳴海駅を降りて、豊橋方向に向かって左側に出ると、曲がりくねったダラダラ坂が見える。坂の途中で右手に神社か寺のこんもりした木立があって、坂の左手には駄菓子屋とか米屋などの商家が並んでいる。坂を登り切ると視界が広がって畠が左手につづく。鳴海球場の鉄傘も見えてくる。合宿は、その鉄傘の方に伸びている道路の入り口にあった」(『白球とともに生きて』島秀之助著、ベースボール・マガジン社)

       1936(昭和11)年に法大を経て金鯱軍に入団した島秀之助が描く、鳴海球場(現名古屋市緑区)の往年の姿である。
       
       ここで36年2月9日、現在のプロ野球同士の試合が初めて行われた。第2回アメリカ遠征を控えた巨人対名古屋金鯱軍の一戦で(巨人から見れば壮行試合、金鯱軍から見れば結成試合)、金鯱軍が巨人の誇る青柴憲一、沢村栄治を打ち込み、10対3で大勝している。

       両翼106m、中堅136mという広い球場で、完成は1927(昭和2)年。34年に来日した全米オールスターチームはこの鳴海球場を含む12球場で日本チームと対戦し(18戦中17戦が対全日本選抜)、合計47本のホームランを放ち全勝しているが、広い甲子園と鳴海ではついに1本もホームランを記録できなかった。

       1958(昭和33)年に閉鎖、翌年の4月に名鉄自動車学校に生まれ変わり、現在に至っている。一、三塁側の内野スタンドがそのまま残っている理由を尋ねると「取り壊すのにお金がかかるからです」と加藤幸夫事務長は笑った。

       2007(平成19)年、自動車学校のコース改修に伴い、かつてあった場所にホームベースのモニュメントを作り、多くのマスコミに取り上げられた。この鳴海球場探訪にお付き合いいただいた法元英明さん(元中日)がプロ野球人生の第一歩を踏み出したのが鳴海球場とそれに隣接する合宿所。
       法元さんは「ホームベースを作ってくれて本当に嬉しい」と声を弾ませ、感慨深げに自動車学校に残るスタンドを見上げていた。球場は消えても、かつての球音がこだまするような不思議な空間がそこにはある。

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◇各地の史跡・モニュメント

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  • BASEBALL FAN「野球を歩く」
    •    »BASEBALL FAN「野球を歩く」
         有料サイト「野球を歩く」(全12回)

         これまで同サイトで取り上げたのは、羽田球場、正岡
        子規記念球場、一高グラウンド、洲崎球場、武蔵野グリ
        ーンパーク、戸塚球場、後楽園球場、芝浦球場。

   今後はこのページで野球遺跡の紹介を行っていきます。








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