プロ野球からアマチュア野球まで、野球を縦横無尽に語ろう

野球は自分を表現するための手段

野球は自分を表現するための手段

 少し長いが、私がかつて書いた文章を紹介する。

 男性誌の取材で「あなたにとって野球とは何ですか?」という質問を受けたとき、坂崎は「僕にとって野球とは表現の対象でしょうか。僕という人間を表現するために野球がある」と答えている。この言葉が活字になったとき、スポーツジャーナリズムに生きるライターたちは笑った。
 取材によって事実を浮かび上がらせることでしか真実を描き切れないと、多くのライターたちは信じている。言い換えれば、野球が好きだろうが嫌いだろうが、取材さえすれば野球の真実は描き切れると、多くのライターたちは思っているのである。
 自分を表現するために野球を選ぶ、ということが不遜だし、実際問題として、フィールド内でプレーする選手や監督、あるいはフロントと言われる人たち以外で野球に参加することは不可能に近い。つまり、野球を表現するのは選手や監督であって、物書きが外野でああだこうだと騒いでみたところで、それは物書きの自己表現にはなり得ないという認識が選手や監督にはあるし、実は物書きの側にもある。
 それでも坂崎は、自分を表現するために野球を描き続けるとインタビューに答えている。小説というフィールドではエンターテイメントの作家として、徹底した虚構を構築する坂崎が、あえて評論の分野では野球を描き、それを自己表現の手段だと宣言したのである。(『挟殺』より)

 これまで1冊だけ書いた小説の主人公、坂崎謙一郎(作家)の物書きとしての立ち位置を説明した文章だ。この本(1998年5月発行)は私にとって2冊目の本で、物書きとしては今より年季が入っていない頃のものだ。しかし、ここに書いた文章の1行1行は、今でも私の信条と寸分も違わない。つまり、私にとって野球とは「自分を表現する手段」として存在している。

[註]ここでいう「取材」とは、物を書く立場の人間が選手(監督)に話を聞く行為を指す。聞いた話に地の文(叙述)を交えて文章を構成する人、あるいは聞いた話だけで文章を構成する人もいて百人百様である。

 野球にとって真実とは何だろう。選手(監督)が口にしたことが真実として流布し、定着していくわけだが、本当のことであっても選手が「それは違う」と言えば、その本当のことは真実にはならない。取材だけで野球を描くことの危うさを、私はそういうところに見出す。

 選手への取材とともに重要なのが想像力である。往々にして取材と想像力は対立するものと考えられ、想像力は軽く扱われるが、想像力がなければ自分だけの視点を持つことは不可能で、自分だけの視点がなければ野球を表現することは不可能になり、ライターの仕事は「創造」ではなく「請負」に堕す。

 現在のスポーツジャーナリズムはスポーツの「物語」作りに懸命である。読者が物語を欲しているという背景があるわけだが、取材した選手(監督)から言葉を引き出し、それを予め用意した<生い立ち、ライバル関係、挫折、復活>という道具立ての中に散りばめ、耳に障らない物語にしていく、という手法が蔓延している。

 スポーツジャーナリズムは幸せか、と問われれば、いい時代ではない、と答えるだろう。

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